交通安全環境研究所 National Traffic Safety and Environment Laboratory

029 勝敗を分けたもの
2012年01月11日
鈴木 央一(環境研究領域)

 あるとき何かの飲み会の席で、周囲の数人と大橋理事長を囲んで話をしていたとき、大橋理事長がこんなことを言った。
「人に嫌われても、だからといって損も得もないけど、情報が入らなくなる」
と。まあ、確かにそうだろう。いろいろな意味で・・・

 まず、前半の「損も得もない」からみていくと、昨今交通研も含めて「評価」や「成果」が華やかだ。そこに好かれているか嫌われているかはあまり入り込まない。まあ、場合によっては人間関係的な項目もゼロではないかもしれないが、我々の研究成果でいうなら、当初計画通り進捗して目標が達成されたか、行政が司る基準などに成果が反映されたか、論文を書いたか、受賞があったか、マスコミなどで取り上げられたか、などが事細かに対象となるが、人間性を問うようなものはない、というか、そう読める項目もないわけではないが優先度はずっと下だ。そんな数値化できない曖昧なものでは客観的な評価はできない?のだ。その帰結として、評価される内容のことのみに専念して、後は勝手にして、と割り切ってしまっても、それで評価点の大半を獲得でき、「優秀な研究者」の称号をもらえる・・・はずだ。個人的には会社の評価を自己の良心の上に置くことを考えないので、そういう割り切りはできないけど、それで得かといえば別に・・・となる。
 「情報が入らなくなる」点についても、確かにそうだろう。普通嫌な人とは、あまり話をしたくない。仕事柄しなくてはいけないケースも多いだろうが、そんなときでも必要以外の話はしないだろう。そんなときには「情報の交換」は成立しない。多くの人からそう思われるような人では、交換できる情報が大幅に制限されてしまうだろう。特に相手が情報操作をしようと思っていてもいなくても、常にそういう状態であればそれは避けられないと言っていい。それがどれだけ損か、といわれると定量化はできない。だが、そんなことを思ったとき強く思い当たることがあった。

 僕は歴史が好きである。その中でも興味を引くものの一つに「関ヶ原の戦い」がある。多くの人がそれぞれの立場でいろいろ感じて考えて、常に予想と違う展開になり続け、そして歴史が教えてくれる結果になっていく。そこには人間の行動原理が凝縮しているように思えるからだ。関ヶ原といえば中心人物の一人がご存じの通り石田三成である。彼は関ヶ原で負けたおかげであまり評価は芳しくない。昨今では内政家としての能力をかう動きも多いが、政治力や大局観を評価する人は依然少ないように思う。が当時の状況を考えるとそこでも抜きんでていたと言っていい。本題にいく前に、少々その「すごさ」をみていきたい。

 豊臣秀吉、前田利家の死後、徳川家康は豊臣恩顧の大名を引き連れ上杉討伐に向かった。そこで三成は「挙兵」することになる。それを家康が仕組んだようにいう人もいる。たしかに家康は想定はしていただろう。だが、結果を見て愕然としたに違いない。想定は「小賢しいクーデター」くらいだったはずだ。しかし三成は、五大老のうち江戸を本拠とする東方代表である家康が出かけたのだから、というので西方代表の毛利輝元を大坂城に招き入れ、政権運営をしていくのに家康なしでも問題ありませんよ、と内外にアピールする壮大な正攻法を仕掛けてきたからだ。クーデターならば政権の中枢である家康は、大義名分を振りかざし、法に則った成敗を加えることができる。実際、恣意性は感じるにせよ、公儀に従わないという大義名分を得て、多くの武将を引き連れて上杉討伐に向かったのだ。しかし、しかし三成はそれが通用しないような合法的な正攻法を仕掛けてきた結果、家康側がむしろ大義名分作りに悩んで、三成一人を悪者にして「君側の奸を除く」というような、どこかのクーデターみたいな発想をせざるを得なくなったのだ。おかげで関ヶ原の戦いの前の貴重な一ヶ月ほど、家康は江戸を動けず、必死の政治工作に追われることになった。上杉討伐で政治工作がなかったとはいわないが、公儀の決定であったから、自己の正当性をアピールできた。しかし関ヶ原に向かうときはそれが薄かったから、工作は壮絶になったのである。三成の企画力や行動力は家康の想定を大きく上回り、数等上の立場にある家康が必死にならざるを得ない状況を作っていたのだ。これをもって「抜きんでた」というのは正しいだろうと思う。

 時は下って戦い前日。大垣城にいる西軍とそれと対峙する東軍の図式に、家康が「えさ」をまく。包囲を解いて大阪へ向かう、というのだ。その情報を得た西軍は城を出て動き始める。それだけみるとおびき出されて策にはまったように見えるかもしれない。だが、そのときの現実を考えると、家康が大垣城を直接攻めたくなかったくらいに、三成をはじめとする西軍も籠城したくなかったに違いない。大坂城のような巨大な城郭でもない限り数万オーダーの兵の籠城は容易でない。多くの兵が城を守れば有利、などと考えるのは水や食料の確保、排泄物処理などに関する苦労の少ない現代人の発想である。しかも大軍を擁して籠城などとなったら、やる前から負けているようなその消極さに味方の士気が下がって、勝てる戦いをも失いかねない。したがって、「あらかじめ想定していた」関ヶ原へと展開したわけである。想定していただけに、布陣は見事である。明治時代に来日したドイツ人軍事顧問が両軍の陣形を見た瞬間西軍の勝利、と断定したというエピソードがあるが、そこまでできることを他でもない家康はおそらく想定していなかった。当時武勇が自慢の福島正則でさえ、家康に野戦攻城の実績では誰にも負けない、と啖呵を切られては従うしかなかったほどで、ましてや三成といえば戦場の経験でいえば北条攻めで忍城攻略の責任者となったが、水攻めがうまくいかなかった、くらいの実績しかない。その三成をはじめとした西軍が雨と霧の中夜間行軍をして、考え得る限り最善といっていい布陣を完了して当日朝を迎えた。おかげで戦闘序盤、数に劣る西軍が東軍の攻撃を跳ね返し続けた。東軍の中央左に位置する福島正則が敵陣を突破していったとき、家康は勝ちを確信したが、対する宇喜多秀家の第二陣の逆襲で押し戻されてしまった。東軍右翼は黒田長政や細川忠興ら歴戦の武将が猛攻を仕掛けたが、石田三成が6千の軍勢で引き受け、配下の武将島左近や蒲生郷舎が倍以上の東軍に一歩も退かなかった。家康は苛立った・・・

 それらをみても三成が家康と同等がそれ以上ともいっていい軍事的作戦力や実行力を持っていたことはほぼ間違いない。だが、敗れたのである。原因はいくつもあるだろうが、一つは情報力の差である。それを生んだ原因は何か? そう、石田三成は嫌われていたのである。だから情報が入ってこなかったのだ。今に残る歴史は勝者が記録したものだから、三成が悪者になりがちだが、それを割り引いても加藤清正や福島正則、細川忠興らが石田三成を激しく嫌悪していたことは間違いない。そう書くと三成は、意地の悪い嫌みな人と考えたくなる。だが、実はその正反対である。

 教科書にも出てくる太閤検地について、実務を取り仕切った一人が石田三成である。そのとき田畑の調査をするにあたり、その所有者より実際に耕している人(小作人など)を台帳上で優先した。所有者がそれを妨害しようとしても権力で抑えつけてまで、そこにこだわったのである。そのような末端の農民に配慮する意識は領国支配全般に及んだから、彼の領地の民は彼(自身はほとんど領地にいなかったはずだが)を名君と讃えた。関ヶ原の敗戦後、逃避行を続けた三成を領民たちは処罰を恐れずかくまった・・・が、三成自身が周りに迷惑をかけるのは本意じゃない、と自首して処刑されたくらいの「美談」が残るほどだ。また飛び抜けた能力と高いモラルを持った妥協や逃げを許さぬ人と心を通わせて親友となった。直江兼続や大谷吉継などである。さらに、高い意識に基づくぶれない考え方や言行一致の迫力に慕う人も少なくなかった。

 三成は急激に出世したため、いわゆる譜代の部下がおらず寄せ集めの家臣団とならざるを得なかったが、関ヶ原で敗れて彼が死ぬまで身内から一人の裏切り者も出なかった。多くの場合不利になると身内で裏切る人が出て中から瓦解するものだが、三成家臣団は最後まで我らが大将のために戦い続けた。石田三成の高い統率力もあるだろうが、彼にそれだけの人間的な魅力がなくてはあり得ない話である。その代表例として蒲生郷舎を挙げておこう。

 蒲生郷舎は、元は豊臣秀吉配下で近江の小大名だった蒲生氏郷の家臣である。蒲生氏郷は英雄の気概を持った優秀な人で、人を見る目では誰にも負けない豊臣秀吉が放っておくわけがなかった(唯一の欠点は部下の多くに蒲生姓を与えたために混乱しやすいことだ)。才能を見込まれた彼は、会津90万石の大大名へと一大抜擢されたのである。部下である蒲生郷舎にとって、主の出世は自身の出世にもつながる望ましいことではあるが・・・事態が急変した。わずか数年で蒲生氏郷は病を得て40歳で生涯を終えてしまった。2代目はその事態を収拾できずにお家騒動に発展。その結果わずか10万石台にまで大幅減封されてしまったのだ。石の減少もさることながら、それ以上に大事な信頼関係を損なってしまったのだろう。多くの家臣が蒲生家を離れた。郷舎もそんな一人だった。だが、それ事態が改善するわけでもない。家族郎党を抱えてあてもなく再就職先を探さねばならない。去るも地獄、留まるも地獄といっていい・・・が、そんな地獄に仏が現れた。故郷である近江国の大名が是非我が家に、移転費用も給料も出そう、と声をかけたのである。すぐ就職できるだけでなく、待遇も予想以上だったから、必死の働きを心に誓った。その「仏」こそ三成だった。単に採用時だけでなく、その後も中途採用組をいい待遇で重用し、貴重な戦力、いや仲間として組織化したから、単なる上下関係を超えたつながりとなった。その結果、石田軍は最後の最後まで戦い続け、そして強かったのである。

 それでも嫌う人は多くいた、つまり、上記は美点であると同時に欠点にもなったといわざるを得ない。規範に基づき妥協を許さぬ行動・・・というとかっこいいかもしれないが、世の中の人皆がそうではない。行動を起こす動機は、倫理や大義よりも欲や恨みや情実に基づく方が一般的?だ。時にそれが行き過ぎて犯罪に至る。だが三成はそういうことが起こる精神が理解できなかったに違いない。そんな低レベルな動機は悪人か馬鹿者など彼自身とは別世界の人種のすることで、そういう人が処罰されようが首をはねられようが当然の成り行き、という以外の感情を持たなかっただろう。豊臣政権の奉行の一人として、太閤秀吉の意向と彼自身の正義感に基づく行動しかない彼にとって、彼ほどのモラルがない人が戦場の命がかかった場面などで「そうはいっても・・・」という状況(苦戦した朝鮮出兵では多くあった)にあっても、情状酌量をする発想がなかった。だからそういう場面に出くわした人の多くは、彼に反感を持った。それに対して家康は、その辺で押し引き、駆け引きができる人で、処罰されそうな人のフォローをするなどの点で、それとなく恩を売ることが少なくなかった。おかけで決して愛想の良い人ではなかったが、三成のように毛嫌いされることはなかった。その差が情報力の差になったという感じがする。

 関ヶ原の戦いで当然、そして結果的にもキャスティングボードを握ることになったのは吉川、小早川を含めた毛利一族の行動である。何しろ毛利輝元が建前上の西軍総大将である。もし、彼がもっと野心と気概を持っていて、本人が家康を糾弾する、といって関ヶ原へ駒を進めていたら全く違った展開だっただろう。もっとも三成などともっとギクシャクした状態になったに違いないので、勝てたかどうかは別だが。だが、本人は大坂城から出てこなかった。彼自身は別に家康と事を構える意志を持っているわけではなかったのだ。そこに家康のチャンスがあった。もちろん三成側も毛利の重要性は前提であるから、交渉を重ねていた。そこで差が出た。三成などが毛利らと交渉している情報はいろいろなチャンネルを通じて家康の元にほとんど流れていた。だが、家康側が吉川広家とやっていた交渉の内容はおそらく家康側に流れた情報の1/10も流れなかった。おかげで家康は相手の状況をみながら交渉ができたから圧倒的有利だった。それ以前でもそうだった。話は戻るが「三成挙兵」という情報も家康は従っている大名より得ている。多くの武将の京や大阪に残っていた配下は命がけで、家康に知られる前提で情報を送った。だが、その反対はほとんどなかった。そのため三成側が得ていた情報は非常に限られていた。肝心の家康自身の居場所さえ関ヶ原の戦い前日までわかっていなかったほどだ。少ない情報を元に、その範囲では、既述のように高レベルな妥当性のある行動を起こしている三成だが、戦いの頂点に近づいてその差が致命的に効いてくるのである。

 戦いの序盤が過ぎて少数の西軍が依然健闘しているとき、三成はいまこそ全軍で攻め懸かり東軍をつぶすチャンスとみて、総攻撃ののろしを上げさせた。その時点で、家康は毛利が動かないことをほぼ確信していたが、三成側は高い確率で戦うものと判断していた。したがって、家康はまもなく毛利軍などの備えをしていた予備部隊を前線に進ませたのに対して、三成は地団駄を踏んで「不運」を嘆くしかなかった。その差は単に参加兵力の差に止まらず、想定や読みの差になって現れた。布陣の上では西軍の勝利、というのも、毛利、小早川を含めて東軍を取り囲むような鶴翼の陣となっていたからである。毛利が戦わない前提であれば全く違った布陣や戦法をとったに違いなかった。毛利より戦う気があった長宗我部盛親は、毛利のサポートとしてその後ろに布陣したために、戦局に何ら寄与することができなかった。かつては四国を制覇した彼の配下6千6百を主戦場に配置することができていれば戦局に変化があったかもしれない。戦場の西、大津では西軍1万5千の大軍が、京極高次が守る大津城を包囲していた。信義や忠誠心で知られる名将立花宗茂は、おかげで世紀の合戦に参加できなかったのだ。本気で兵力をもっと集めるつもりならば包囲軍の一部を急行させる手もあったはずだ。だが、そこまでしなくても建前上の西軍で前記のように十分優勢な体制を築けているはずだった。だが、その主力となるはずの毛利一族が、自分たちが西軍の中心という意識がまったくなく、三成の見込み(希望といったほうが近い)とは大きく違った展開となってしまったのだ。

 石田サイドでももう少し疑わしいと判断していたのが、実際に戦いの行方を決めた小早川秀秋である。彼も裏切り者扱いだったり、苦労知らずのお坊ちゃんみたいにいわれることが多い。確かに若かったし、戦場の経験も少なかったが、朝鮮の役では渡海してそれなりに苦労しているし、関ヶ原の戦い後の彼の短い統治をみても並以上の才能をもっていたと思われる。また、「裏切り」についても、当時の行動基準は「生きて家をつないでいくこと、」が至上命題であるから、その確率を高める手段を執るのは当然のことで「裏切り」というのはあたらない。武士道などといって忠義か死か、みたいになったのは江戸時代になってからだ。武士が命のやりとりをしないにもかかわらず支配者階級で生きていくために生まれた哲学であって、「死」がすぐそこにある状況でそんな生やさしいことをいっていては命がいくつあっても足りない。その大事な命がどちらにつけば守れるのか、自分にとってメリットが多いのか、迷い続けた彼の行動は、美しいとはいえないが、その前提であれば完璧だった。

 関ヶ原の戦いで彼が陣取った松尾山は、簡易城塞のような防御に有利な拠点で、そこをおとさなくてはそれより西に行けない重要地点だった。そのような地点を両軍とも本気で攻める余力はなく、そこならば、ほぼ攻められることなく戦場を一望して最後の最後まで決断を遅らせることができた。そこにいち早く、まだ三成ら西軍主力が大垣城にいる頃にさっさと入ってしまったのだ。その行動は当然ながら西軍側には「やつは何を考えているのか?」という疑いを、東軍側には「脈がある」と思わせるのに十分だった。なので、三成サイドからはつなぎ止めるための、家康サイドからは味方に寝返らせるための壮絶な工作合戦が繰り広げられた。ここでも三成の着想は小早川秀秋のツボを突いたものだった。

 恩賞として、領地の加増に加えて秀頼が成人に達するまでの間「関白に」というのである。つまり一時的に豊臣秀吉の後継者だよ、と持ち上げたのである。これは秀秋にとって非常に魅力的だった。偉大な養父で叔父上の後継者になれる・・・が、最後はそれを蹴って寝返ったのはご存じの通りである。それに至るには多くの要素が存在し、一つの理由で決めつけることはできないが、大きく作用しただろう原因の一つに、養母となっていた北政所(秀吉の正妻)が「内府殿(家康)に味方しなさい」といっていたことが挙げられるだろう。
 秀吉が異例の出世をしなければ一庶民であっただろう秀秋にとって、しかも養子として入った小早川家で、命がけで自分を守ってくれる家臣などは得にくく、周囲は秀秋よりも家のために働く状態だったと思われ、彼にとって親身になって話ができる人は非常に限られていた。そんな中、「母」の言葉の意味は小さくなかった。そしてそれはおそらく正しかった、というか自然の成り行きだった。実子がなく面倒見のよい北政所にとって、自分の養子で親族でもある秀秋を守りたい気持ちは真実だった。そしてその子の運命を預けられるとしたら・・・家康ではあっても三成ではなかっただろう。確かに三成は歳も格も家康と大きく水をあけられている。しかし政権を支える奉行職で40歳。人間性次第では大事な子供の運命を託すことを考えてもいいはずだった。が、やはり嫌われたのである。
 才能にあふれ忠誠心では誰にも負けない三成ではあるが、悪し様に言う人は多く、敵も多かった。子の未来を託すにはあまりにリスクが高かった。そして関ヶ原で見せる軍事的才能も、それ以前ではまだ未知数だった。それに対して家康は、自然に情報が集まるような魅力というか、懐の深さというか、そういうものがあった。そして織田信長と盟約を結んで浅井、朝倉氏と戦い、武田信玄、勝頼親子と戦い勝ち抜いて拡大してきた他を寄せ付けない実績があった。豊臣政権のナンバー2までたどり着いたのも、秀吉がその人柄と能力と実績をかっていたからに他ならない。それをみていた北政所が、大事な我が子を「道を誤らせたくない」と思ってアドバイスするとなったとき、どちらを選択するかは明白だろう。そして同じく大事だったのは、そういう話があるということが事前に三成の耳には恐らく入っていなかった。というか、仮に入っていても、彼の性格から察するに、そこに重きを置かなかったに違いない。三成の思考であれば、悩みや迷いは自力で考え抜いて乗り越えるもので、他人にあれこれいわれるようなものではなかっただろう。だから、秀秋の目の前の戦況を自分たちに有利に進め、厚い恩賞を約束すれば当然味方になるとしか考えられなかった。

 三成の盟友大谷吉継は、同じ戦場にいてそこをよく見抜いていた。三成に、他人を受け入れる余裕がなく人望をなくしている、それがことの成就を妨げている旨を直言していた。だが、三成はそれまで同様自己の正義感のみに忠実なやり方を変えることはなかった。

 合戦の当日、三成とは異なり吉継は「小早川は敵」と、裏切る以前から判断していた。彼は「本気で戦っていた」西軍の最右翼に布陣し、自軍より多くの軍勢を抱える藤堂高虎らと戦う一方で、直面する松尾山の小早川軍に対して警戒を怠っていなかった。それだけでも大車輪といえる活躍だったが運命の時がきた。小早川1万6千の大軍が山を下りて、大谷吉継の陣に攻めかかかった。吉継は秀吉に愛される才能の持ち主だったが、らい病だったことが出世を妨げ、敦賀5万石に止まっていたから、動員可能戦力は2千に満たなかった。だが、腹をくくった名将率いる千数百は、身の処し方を迷い続けた大将の大軍よりも強く、攻撃をはね返した。他にも松尾山周辺に布陣する小大名(複数)の軍勢数千がいたから、力を合わせればまだまだ戦える、と吉継は半ば視力の失われた目で戦いを見据えていた。そして再度の攻撃も撃退した。小早川恐るるに足らず・・・ その一方で、「小大名たち」も、自分の身を守るために必死に状況判断をしていた。大谷吉継が強いのはよくわかった、が、少ない軍勢がさらに減少して疲労していくのもまた明らかだった。何か一つ崩れたら大軍に飲み込まれるに違いなかった。どちらにつくのが身を守るか・・・彼らは小早川に従った。それが西軍崩壊の始まりだった。
 勇戦した大谷吉継には、部下に首の処分を命じて自害する時間しか残されていなかった。三成以上の洞察力を持っていたといえる彼は、家康との関係も良好で嫌われていなかった。もし彼が三成の立場にいたらもっと違った形になったかもしれない・・・が、人間性ではなく、病気で敬遠されるようになってしまったので事情は大差なかったかもしれない。そんな人が敬遠したくなる病気の人と、変わらぬ友情でつきあい続ける心の寛さを持っていたのが、他ならぬ三成だった。だから吉継は、多くの点で三成と意見が食い違ったものの、後悔することなく最後まで三成と行動を共にすることをためらわなかった。多くの人に嫌われた三成だが、同時に多くの人が命を捧げるに値する魅力を持っていたのである。冒頭に「嫌われても損も得もない」と書いたが、三成の場合、多くを得て多くを失った、というほうが近かった。

 よく歴史で「たら、れば」ということがいわれる。もし小早川が裏切らなければ・・・などである。だが、こうみていくと、そこにはかなりの必然性がある。もし関ヶ原の戦いの展開を抜本的に変える仮定を挙げるなら「三成が嫌われていなかったら」だろう。そうすれば彼の元にもっと情報が集まり、そこからもっと多くの選択肢が彼に与えられただろう。彼の味方に、という人がもっと増えただろう。それらが組み合わされた状況で、彼の能力が発揮されれば、彼はもっと高次元に飛躍したことだろう。

 だが、待てよ。「嫌われていなかったら」という仮定をする場合、これまで述べてきた数々の彼の魅力、長所をそのまま維持できる保証があるのか?正義を振りかざすことなく、損得で行動する「当たり障りない」人だったら、そもそも家康に対抗するわけがなかった。目的に向かって妥協を許さぬ覚悟がなければ、家康を慌てさせるほどの軍勢を集め、強固な布陣を行えるはずがなかった。正義感に基づく心の寛さがなければ決死の覚悟を持つ6千人の部下を得られるわけがなかった。それら一つでも欠けていた場合、毛利や小早川がどうのこうのという以前に勝負がついてしまっていたに違いない。やはり、歴史に「もし・・・」といっても、空虚さがつきまとわざるを得ない。でも敢えて言いたい!

 「石田三成が嫌われてなかったならば、歴史は・・・?」


当サイト内の署名記事は、執筆者個人の責任で発表するものであり、交通安全環境研究所としての見解を示すものではありません。なお、記載の肩書は掲載当時のものです。また、当サイトのコンテンツを転載される場合は、事前にご連絡をお願い致します。

企画室(kikaku@ntsel.go.jp