交通安全環境研究所 National Traffic Safety and Environment Laboratory

020 効率化は脆弱化の始まり?生き残るには?
2011年01月05日
鈴木 央一(環境研究領域 主席研究員)

 近年「効率化」ということがよく言われる。業務、組織、予算いずれに関しても、それをしないと生き残れない、生きるか死ぬかの問題のようである。確かにそれも一面の真理ではあるだろうが、あくまで「一面の」という気がしている。まあ、敢えて非効率化を進める、といったことは馬鹿げているだろうが、「効率化=善」というような単純な図式ではないように思っている。


 個人的に好きな歴史を例に挙げさせてもらうが、日本の武家政権で「効率化」を図って生き残りをかけた例としてあげられるのが、源頼朝と豊臣秀吉といえる。政権を効率的かつ安定化させるために、権力を自分の周辺に集め、指揮系統を明確にして無駄を排除した。そうして一族の血を見たものの、とりあえず問題なく次の代へは無事に継承された。にもかかわらず、どちらもその子すら生涯を全うできず短命に終わっている。それに対する例として、徳川幕府が挙げられるだろう。知られているように、本家たる将軍家の他に御三家を創設した。幕政への関与が少ないが格式は高い彼らの行動を第三者的にみていると、メンツ等に関わる細かい違いにこだわり、無責任な立場で政策に文句を言い、互いに足を引っ張り合うことのほうが多く思われ、およそ社会的、政治的にプラスになっていたとは思いがたい。今時の「効率化」を推進するとしたら真っ先に「仕分け」されて統廃合の候補になりそうだ。政権を支える老中や大老たちがせいぜい10~20万石くらいでがんばっているのに、御三家あわせて約150万石ももらっているのだからなおさらだ。だが、実際には、本家で後継者がいなくなったときにそこから後継者が現れ、無秩序状態を作ることなく権力を継承し、250年以上の長きにわたって平和を維持する一つの源となった。また、古代中国で「効率化の権化」ともいえるのは秦の始皇帝だろう。法規を明らかにし、賞罰の基準を明確かつ公平にした。郡県制を基にした効率的な統治システムを取り入れ、SI単位の走りともいうべき度量衡の統一をし、「実際に役に立つ」学問のみを認めた。だが性急すぎたこともあり、それで国を長く保つことも国民の生活を向上させることもできなかった。それを継いだ漢の劉邦は、その反省から?混乱した世の中で信頼できるのは身内、として一族を各所に配置した。その時はそれで良かったが、代が経ると互いに疎遠になって当然のようにいがみ合い、争い始めた。時にそれが国を揺るがす一大反乱になったが、そのたびに内外にいる一族から名君が現れて曲がりなりにも約400年にわたり国を保たせた。


 これをみていると、当初良かれ、と思って作った冗長性を持たせた仕組みが、時代を経て事情が変わり、非効率化の源泉となっていても、そうした仕組みの中に組織などを生き残らせていくきっかけがあるように思える。逆に、「わかりやすく」「効率化した」場合において、その時は良くてもちょっとした時代の移り変わりに適応できずに短命に終わっているケースが多い。つまり効率化を行う、というのはその時、その状況にのみ適していて、それ以外に対しては脆弱な仕組みにするということでもある。それで思い出されるのが、数年前に、仕事で普段乗り慣れない私鉄電車に乗ったときのことである。「車両故障で遅れる」という。それがはるか数十キロ彼方の別の県での話である。その少し前にその私鉄は他の私鉄と相互乗り入れをした、元は別の線でのトラブルである。相互乗り入れをして輸送力は向上し、乗り換えは減り、これぞ「効率化」であるが、些細なトラブル一つで数十キロにわたり電車がストップし、影響を受ける人は倍増した。重要な仕事だったので、ずいぶん余裕をみていたのだが、遅れてしまった。その2年前だったら遅れずにすんだのに、それが進歩か!?


 日本の交通安全環境研究所に勤務する私としては、日本国にせよ交通研にせよ存続してもらわないと困る立場である。日本全体のことは、もっと高いレベルでその仕事をする人に任せるとして、交通研での研究業務について考えてみたい。研究職員が50名に満たない当研究所だが、守備範囲は自動車、鉄道など陸運全般の安全性と環境改善に関する内容で非常に広い。とてもでないが、常にすべてをカバーすることはできないが、だからといってリソースを限られた範囲に集中しすぎると上記のようなわけで長期的にみて危うい気がして、そのあたりのバランスを考えていかなくてはならないだろう。例えば数年前、最もホットな話題は水素、燃料電池だったといっていい。そこで、「これからは燃料電池、それ以外は時代遅れだ!」といって、研究リソースのすべてを燃料電池に投入していたら、今頃、それ以外の課題に適応できない逆に時代遅れの組織となってしまっていただろう。もとより燃料電池も今後注目すべき技術の一つであり、当研究所でも技術基準策定に関しては様々な調査研究を行った。ただ、あくまで一枚の有力カードであって、それがすべてであっては非常に危険だ。大きな組織であれば、そのような課題に数名をある程度長い期間専従させる余裕というか、懐の深さを見せることもできるかもしれないが、うちのような小さな組織でそれをやっても生き残れない。


 私の専門といえるディーゼル車の排出ガス、環境性能関係において、ここのところ規制強化などの効果から環境基準達成率はかなり向上している。新車で厳しく下げるよりも、むしろ使用過程車で悪化するのをきちっと防ぐ方が効果的になりつつある。これまで、研究開発や認証などいわば上流に関する仕事として、尿素SCR車の技術指針策定に関する試験調査や、次世代低公害車としてスーパークリーンディーゼルエンジンの研究開発などをやってきた。それに対して、前記のような流れを受けて近年車検での排出ガス検査をどうするか、といった調査も行っている。専門外の方からみればたいした違いを感じないかもしれないが、前者は一般解を求める学問的な要素が大きいのに対し、後者は目の前の一台の車で成立するかどうか、といった現場的な話が中心で、関係する会社、団体なども抜本的に異なる。そうした「別の仕事」をするにあたって、並行してやっている「上流」に関する研究などが役に立つ。尿素SCR車の排出ガス検査をどうするか、という検討をするにあたっては、指針策定を支援するためにあれこれ格闘した経験こそが最高の基礎資料である。と、いったかたちでそのときに求められ、リンクするいくつかの事柄を並行してやっていくことが、「生き残る」のに結構いい選択なのではないかと思っている。反面、一つのことに関して真の専門家となれそうもない。研究者の端くれとしてそれでいいのかという気もするが、組織が生き残るにはそういう人間がいるのも悪くないと割り切ろう。


 何年か経つと、排出ガス規制値の議論も一段落して、検査法も変わっているかもしれない。排出ガス問題も終わりかと思いたいが、おそらく次の課題が出てくるだろう。規制値を満たすための技術的なボトルネックがほぼクリアになると、メーカーとして次の課題は当然コストや開発工数の削減に向かう。触媒などに使う白金を半分にして同じ性能を、1年かかる開発を半年に、という方向だ。資源、コスト、時間いずれも「効率化」して世界的な競争に勝たなくてはいけないのだ。そして、半分にできれば1/4にすることを目指すだろう。その結果効率化がいきすぎ、環境改善におけるそれまでの蓄積に対する価値が忘れられ、破綻のしやすいシステムになりそうに思う。一昔前に安全性が不十分としてリコールになった問題で、その部位に数百円高い部品を使えば回避できることがわかっていた、ということがあった。技術的に可能であることが、環境を含めた安全性確保をもたらす保証はないのだ。そうなると再度認証試験などをどうするか、といった議論が起こるだろう。そういうときがくれば、実際の車がどうやって使われているか、といった車検に関する仕事の経験が役に立つだろう。 この他に燃費評価法や亜酸化窒素排出に関してが、私が今持つカードといえようか。これを維持していくのは、容易でない。一つの仕事のみに最適化したらそれは不可能だ。なのでその時々の状況で「次につながる」と思えることを非効率であっても並行して進めていくことが、社会的要請の変化に対応することを可能とし、生存確率を高めていくことになると思っている(あくまで個人的に)。御三家を抱えて?江戸幕府は260余年もった。これらのカードで20年ほどの残る研究者生活を生き延びていきたい。


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