交通安全環境研究所 National Traffic Safety and Environment Laboratory

009 「私の履歴書」ふう思い出の記
2009年03月23日
小田 曜作(リコール技術検証部長)

  皆さんは、日本経済新聞の最終面に掲載されている「私の履歴書」をご存知ですか。私は、この記事が好きで時々読んでいます。今回は、一行政官のある体験をこの「私の履歴書」ふうに綴ってみたいと思います。

 私は、旧運輸省に入省し、当時の自動車局を振り出しに、ほぼ一貫して自動車畑を歩んでいました。そんな私が、あるとき、意外なことで鉄道行政に関わることになりました。それは、次のような経緯からです。

 平成7年1月17日、私は、正月にひいた風邪をこじらせて、自宅で休んでいました。少し、気分が良くなったので、ベッドを出てテレビをつけると、いきなり高速道路が横倒しになっている光景が目に飛び込んできました。阪神・淡路大震災です。テレビでは次から次へと衝撃的な被災場面が映し出され、私は、びっくりして、しばらくの間、熱があるのも忘れてテレビに見入っていました。

 そして、それから2ヵ月半後、私は近畿運輸局鉄道部へ転勤を命ぜられ、震災で損壊した鉄道の復旧に携わることになりました。

 赴任してみると、大阪の中心部は、全くなんともありませんでしたが、神戸の方へ向かうと、だんだん被災した建物が増え、屋根を覆った青いビニールシートがあちこちで目に付きました。ビニールシートは春の明るい日差しに照らされてきらきらと光り、目に痛いほどでした。役所に行ってみると、鉄道部長室に阪神地域の鉄道路線図が大きく張り出され、不通区間は赤く塗られていました。職員に話を聞くと、ちょうど私が着任した4月1日にJR神戸線が開通し、一息ついたところで、次は阪急神戸線と阪神本線の開通が目標だということでした。JR神戸線と阪急神戸線、阪神本線は海沿いの狭い場所を3線並行して走っていて、どれも同じように大きな被害を受けていましたが、JR神戸線だけがいち早く開通しました。これは、JRは線路脇に余裕があり工事がし易かったことと、全国のJRから応援部隊がかけつけたことが要因だと言われています。一方、阪急、阪神の方は、損壊した路盤を根本から作り直す大規模な工事をしていました。それに加え、周辺の様々な付帯工事もしていました。鉄道というのは、普段は電車を走らせながら工事しなければいけないので、色々と改良したい箇所があってもなかなか思いとおりにできないところがあります。阪急と阪神は、この際、復旧に併せて長年の様々な懸案事項を一挙に片付けてしまうつもりのようでした。しかし、そのため、開通がJRより3ヶ月近く遅れ、乗客もJRに奪われ、開通後も乗客は戻ってきませんでした。一方、JRの方は、私鉄王国といわれる関西で苦戦していたからでしょうか、乗客が増えたことを大変喜んでいたようです。

 あるとき、これに似た話を近鉄に行ったときに聞きました。昔、近鉄は、大阪線は標準軌で名古屋線が狭軌だったので、名古屋から大阪に行くときにどうしても途中で乗換えをしなければならず、大きな問題だったそうです。それがあることをきっかけに名古屋線を標準軌にすることができたそうです。昭和34年の伊勢湾台風です。伊勢湾台風で近鉄名古屋線はずたずたになってしまったそうですが、当時の社長の決断で、復旧に合わせて一気に標準軌に変える工事をしたそうです。その結果、大阪、名古屋間は一つの線で結ばれ、名阪特急が走ることになりました。標準軌にしたことでスピードもアップし、新幹線開通後も、名古屋から難波や上本町などの大阪南部に行くときは、乗り換えなしで行けるので名阪特急を利用してくれる方が今でも大勢おられるそうです。
組織というのは、危機のときこそ重要な決断を下す必要があるのかもしれません。そして、その決断が、その後の長い間、組織の将来を左右することになるのかもしれません。阪神・淡路大震災に遭ったとき、JR、阪急、阪神のトップは、夜も寝られずに思い悩んだことではないでしょうか。そして、それぞれの道を選び決断しました。選んだ道は正しかったのか、答えは20年後、いや50年後に分かるのかもしれません。

 震災から1年くらい経つと復旧工事は大体終わり、私は、時間があれば、管内の鉄道をあちこち見て回っていました。あるとき、JRの方の案内でトンネルの補修工事を見に行くことになりました。到着してトンネルの中に入ると、JRの方が、この亀裂部分はこうやって補修する。こちらの剥落はこう処理する、などと大変詳しく説明してくれました。専門用語を盛んに連発するので、私は少々消化不良を起こしながらも一生懸命聞いていました。ひととおりの説明が終わってトンネルを出ると、JRの方が、突然、トンネルのうえにある小山を登り始めました。何も言わないでどんどん登っていくので、いったいどうしたんだろう、上に変電所でもあるのかしらなどと思いながら、後をついて行きました。よく晴れた暖かな日で、急な坂道をはあはあと息を切らしながら登っていくと、突然、開けた場所に出ました。何だ、何もないじゃないか、何しにこんなところまで来たんだと文句を言おうと思ったとき、広場の真ん中あたりに小さな石碑がポツンと立っているのに気がつきました。近寄ってみると、黒っぽい御影石に20人ほどの名前が刻まれています。そうです。これは、このトンネルの建設で命を落とされた方々の慰霊碑だったのです。あれだけ、饒舌だったJRの方は何も言わずに遠くを眺めていました。おそらく、若い私に、今の日本の鉄道網はこういう方々の犠牲のうえにできたものなのだということを伝えたかったのだと思います。しばらく、二人は、黙ってその場に佇んでいました。何の虫でしょうか、小さな虫の鳴き声が静かに響いていたのを覚えています。

 近畿運輸局に赴任して2年余りが過ぎ、そろそろ異動が近いかなと思っているとき、JR福知山線を見に行くことになりました。JR福知山線は阪急宝塚線と平行して走っている路線で、震災の被害はあまりなかったところですが、色々と改良をしているということなのでJRの方に説明をしてもらうことになりました。行ってみると、JRの方が、この駅舎はこういうふうに改良する、本数も増やし、時間も短縮して乗客を増やさなければなどと言って、阪急宝塚線に激しく対抗意識を燃やしていました。神戸線で乗客を増やすことができたので次は福知山線もということだったのでしょう。私は、利用者は便利になるし、それでJRの収入が増えればそれにこしたことはないな、などと思いながら帰って来ました。

 JR福知山線の見学が終わってしばらくすると、私に帰京の命令が来ました。私は、東京に戻ると、また自動車関係の業務に就き、何箇所かの部署を転々としているうち近畿運輸局時代のこともすっかり忘れていました。そんなある日、打ち合わせを終えて、会議室から部屋に戻ってくると、皆がテレビの前に集まって騒然としています。何だろうと思って覗き込むと、電車が横倒しになってマンションに突っ込んでいました。隣にいた職員にいったいこれはどうしたんだと聞くと、どうも電車が脱線してマンションにぶつかったらしい、大変なことになったと言っています。場所はどこだと聞くと、JR福知山線の尼崎付近らしいとのことです。私は、テレビに釘付けになり興奮して話すアナウンサーの声をただ聞いていました。そして、しばらくしてから、近畿運輸局時代の最後に見に行った鉄道、JR福知山線を見学したときのことを思い出していました。

おわり

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